江戸で、市河米庵、貫名菘翁とともに「幕末の三筆」と称された一人です。巻(新潟市西蒲区)で生まれました。明治期に干拓されるまで巻にあった鎧潟は、菱が取れたことなどから菱湖と呼ばれました。菱湖という号の由来とされています。
幼少の頃に新潟に移って西堀通りにある善導寺の住職より書法を学び、19歳で江戸に出て、良寛とも親交があった儒学者・亀田鵬斎のもとで書法と漢詩を学びます。書家として独立した直後は版木の版下を書いて生計を立てました。整った字形と読みやすさが評判を呼び、名声を高めていきました。楷書、行書、草書、仮名から手紙の実用見本まで習字手本は200種類以上を刊行、最盛期には1万人以上の門下生を持ち、「江戸での書家の親玉」と言われました。明治維新後、自然で平明、端正な美しさがある「菱湖流」書体は、政府の官用標準文字に採用されました。現在も高級な将棋の駒(銘駒)に菱湖の書体が使われています。