にいがた文化の記憶

アーカイブ「新潟偉人」発見

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アーカイブ「新潟偉人」発見


当館ホームページで過去に紹介した「新潟偉人」をまとめて紹介しています。

宮柊二宮柊二
 生活者の視点から感慨を込めて現実を眺めつづけ、戦後歌壇をリードした歌人。新春恒例の宮中行事、歌会始の選者を8回も務めました。
 宮は、書店の長男として生まれました。本名は肇。「柊二」の筆名は、愛読したロシアの詩人・プーシキンが由来になっています。旧制長岡中学時代に歌を詠み始めました。20歳で上京し、歌人・北原白秋の内弟子、秘書となります。白秋主宰の多摩短歌会で活躍しはじめたころ、戦争に召集されて中国山西省で5年を過ごしました。帰国後は製鉄会社に勤務しながら、1953年に「コスモス短歌会」を立ち上げ、歌誌「コスモス」を創刊。会社勤めを辞めて歌業に専念するようになり、新潟日報などで投稿歌壇の選者を務めました。日本芸術院賞受賞に際して「万葉古今のよみ人しらずの歌人のように『埋没の精神』を心とする庶民的歌人」とたたえられました。また、同じ歌人の英子夫人も歌会始の選者、召人を務めました。魚沼市名誉市民(旧堀之内町名誉町民)です。
〔2019年5月掲載〕
大庭みな子大庭みな子
 女性初の芥川賞選考委員を務めた作家・大庭みな子の父は、新潟医専(現新潟大学医学部)卒の海軍医でした。東京で生まれたみな子は、父親が1941(昭和16)年に海外勤務になると母親の実家のある木崎村(現新潟市北区)の伯母の家で暮らしました。その後は父親の転任に伴い広島や愛知などで過ごしました。戦後に再び一家で木崎村に移り、新潟高等女学校(旧制)、新発田高等女学校(旧制)に通いました。津田塾大学入学後まもなく出会った大庭利雄と、1955(昭和20)年に結婚。大学卒業後、夫の赴任地米国アラスカで本格的に執筆活動を始めます。
 1968(昭和43)年、『三匹の蟹』で芥川賞と群像新人賞をダブル受賞。作家としての地位を確立しました。日本芸術院会員で、日本ペンクラブ副会長を務め、女性初の芥川賞選考委員にもなりました。1996年に脳梗塞で倒れた後も創作意欲は衰えず、利雄が介護をしながら口述筆記で作品づくりを支えました。
〔2019年4月掲載〕
中村十作中村十作
 板倉町(現上越市)の小地主の五男として生まれました。20歳で海軍に入りますが、訓練中に負傷し除隊します。その後、早稲田大学に進学しますが、学費が続かず中退し、真珠養殖家を目指し宮古島に渡りました。島には琉球王朝の古い制度が残っており、島民を奴隷的に支配していました。
 帝国議会の請願制度を学んでいた十作は、養殖業の資金を提供し、人頭税廃止請願運動を起こします。帝国議会に向けて上京すると、新潟県人や早稲田人脈に助けられ、請願は2年がかりで採択されました。島に266年続いた人頭税は廃止され、十作は島民から「大和から来た神様」と敬われ、「御嶽(うたき)」という島の守り神に祭られました。また、島民の協力で、日本初の黒真珠養殖にも成功しました。
〔2019年3月掲載〕
鈴木文臺鈴木文臺
 医家の次男で、江戸時代から明治にかけて粟生津村(現燕市)にあった私塾「長善館」の創設者です。17歳の時、良寛の前で「論語」「唐詩選」を講義して褒められました。その後江戸に出て学び、帰郷後、37歳で長善館を開設しました。長善館では規則正しい生活習慣を学則で定め、中国の古典などを系統立てて教えました。
 文臺は、当時奇僧として知られていた良寛の学識をいち早く評価した人物でもあります。「良寛の漢詩は寒山詩を思わせ、その書はのびやかな懐素(中国・唐時代の書の大家)の書風を思わせ、和歌には万葉集の響きがある」としてその学識を評価しました。
 長善館は文臺の死後も3代にわたって引き継がれ、近代の黎明期に公共事業、教育界、政界で活躍する人材を1000人以上世に送り出しました。柏崎にあった「三餘堂」と並び「北越私学の双璧」と呼ばれました。
〔2019年2月掲載〕
三輪晁勢三輪晁勢
 洋画家・三輪大次郎の子として生まれました。与板町立与板尋常小学校卒業後、画家修業の為に京都へ移住し、京都市立美術工芸学校で日本画を学び始めました。ゴーギャンに憧れ、洋画への転向を考えたこともありましたが、そんなとき、一度志した日本画の道を貫くように助言したのが、東京帝大教授で社会学者の伯父・建部遯吾(新潟市出身)だったといわれています。
京都市立絵画専門学校で出会った堂本印象に師事し、印象主宰の画塾「東丘社(とうきゅうしゃ)」で共に日本画の新境地を開きました。師の印象は、戦後まもなく渡欧し、伝統的な日本美術に抽象表現を取り入れた作家です。
 晁勢は、当初は線描きによる伝統的な日本画を描きましたが、やがて面構成や明るい色彩などで独特の画風を確立し、1962(昭和37)年に《朱柱》で日本芸術院賞を受けました。長岡市名誉市民(旧与板町名誉町民)です。
〔2019年1月掲載〕
鷲尾雨工鷲尾雨工
 西蒲原郡黒鳥村(現新潟市西区)生まれ。3代続いた医者の家柄でしたが、祖父と父は早くに亡くなり、生家は雨工が3歳の時に焼失したため、小千谷市にある母親の実家に移住しました。
 旧制小千谷中学校では常に成績上位で、卒業後は文学を志して早稲田大学英文学科に進みました。同級生には、直木三十五、青野季吉(佐渡市出身)、坪田譲治、西條八十など、後に文壇で名を馳せた人材がそろっていました。また、中学後輩の西脇順三郎が慶応大学に入学すると、雨工の下宿で文学談義を重ねました。
 卒業後、直木から声をかけられて出版社を共同経営しますが失敗し、多額の負債を抱えて小千谷に帰郷しました。しかし作家への道を諦められずに再び上京し、職を転々としながら執筆活動を続けました。再上京から11年、43歳の時に『吉野朝太平記』で第2回直木賞を受賞。歴史小説家として評価を高めましたが、戦後の歴史物軽視の時流や体調悪化のせいで、その活躍は長く続きませんでした。
〔2018年12月掲載〕
市島謙吉市島謙吉
 新潟県最大の豪農・市島家の分家の生まれ。水原代官所の学問所・広業館で星野恒に学び、新潟学校、東京英語学校を経て東京大学文学科に入学しました。しかし政治家を目指して大学を中退、大隈重信の改進党創設に参加。高田新聞社長兼主筆、新潟新聞主筆、読売新聞主筆など、政党活動と併せて新聞人としても活躍しました。また東大同期・坪内逍遙や高田早苗らとともに、東京専門学校(現在の早稲田大学)の創設に参加しました。
 1902(明治35)年、早稲田大学の初代図書館長に就任。翌年から分類目録規則を完備するなど図書館の拡充をはかりました。これは、図書館の蔵書検索OPAC(オンライン蔵書目録)の原点です。「誰でもいつでも本が読める、借りられる、調べられる」という近代的なシステムを推し進めました。
また、春城と号して多くの随筆を残しました。また教育者として郷土新潟の志ある若者たちを支援、当時の東京における県人の中心的人物でした。
〔2018年11月掲載〕
大橋佐平・新太郎大橋佐平・新太郎
 ◆出版社「博文館」を創設◆
 長岡市に生まれた大橋佐平は、北越新報、越佐毎日新聞を創業するなど活躍した後、新事業を志して1886(明治19)年、51歳で上京しました。翌年、同郷の医学者小金井良精の斡旋で借りた6畳二間の長屋で出版社・博文館を立ち上げました。1895(明治28)年には日本初の総合雑誌「太陽」を創刊しました。藩閥に関係なく優れた人材を執筆者に迎えたこの雑誌は、当時の世論形成に大きな役割を果たしました。

◆日本初の私立図書館「大橋図書館」を創設◆
 1893(明治26)年、大橋佐平は出版事業視察のため欧米を訪れ、帰国後図書館創立を構想します。図書の収集など準備を進める途中で佐平は亡くなりますが、事業は息子の新太郎に継承され、博文館創立15周年の1902(明治35)年に日本初となる私立図書館「大橋図書館」が開館しました。初代館長は、同郷の石黒忠悳(小千谷育ち)が務めました。
〔2018年10月掲載〕
前島密前島密
 私たちは、いつでもどこでも、平等に情報を受け取ることができます。この情報化社会の基礎を築いたのが、前島密です。
 密は幕臣の頃、欧米では国中どこにでも情報のやり取りができる郵便制度があり、それが国を豊かにしていることを知りました。明治維新後に新政府の役人として登用された密は、その経験をもとに、郵便制度を立ち上げようと動き出しました。従来の飛脚制度を廃止し、西欧の郵便制度を採り入れて「郵便」「切手」「はがき」などの名称を決め、全国均一料金制を導入、外国郵便の取扱を開始させました。このように、誰もが平等に簡単に利用できる郵便制度の構築に貢献したことから、「日本郵便の父」と呼ばれています。
 また、海運・鉄道業の振興や新聞事業、郵便為替や貯金の導入、電話事業の開始など、日本の文明開化をけん引する数多くの事業に関わり、新しい仕組みを作り上げました。また教育の分野でも、盲学校の設立や東京専門学校(早稲田大学の前身)の校長を務めるなど、その業績は多岐にわたっています。
〔2018年9月掲載〕
司馬凌海
司馬凌海
 語学の天才で、西洋医学を日本語に訳して伝えることでその発展に大きく貢献しました。日本初の独和辞典『和訳独和辞典』の出版でも知られ、「蛋白質(たんぱくしつ)」、「十二指腸」、「窒素(ちっそ)」は凌海が訳した言葉といわれています。
 11歳で江戸に出て漢学、蘭学、医学を学び、さらにオランダ語、ドイツ語、英語、フランス語など6か国語をマスターしました。近代化のために雇用された外国人医師の授業も、優秀な通訳の凌海がいなければ成立しませんでした。東京や愛知で医学校の教授や病院長などを歴任しました。
 司馬遼太郎の歴史小説『胡蝶の夢』の登場人物の一人として描かれています。
〔2018年8月掲載〕
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