にいがた文化の記憶

アーカイブ「新潟偉人」発見

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アーカイブ「新潟偉人」発見


当館ホームページで過去に紹介した「新潟偉人」をまとめて紹介しています。

三輪晁勢三輪晁勢
 洋画家・三輪大次郎の子として生まれました。与板町立与板尋常小学校卒業後、画家修業の為に京都へ移住し、京都市立美術工芸学校で日本画を学び始めました。ゴーギャンに憧れ、洋画への転向を考えたこともありましたが、そんなとき、一度志した日本画の道を貫くように助言したのが、東京帝大教授で社会学者の伯父・建部遯吾(新潟市出身)だったといわれています。
京都市立絵画専門学校で出会った堂本印象に師事し、印象主宰の画塾「東丘社(とうきゅうしゃ)」で共に日本画の新境地を開きました。師の印象は、戦後まもなく渡欧し、伝統的な日本美術に抽象表現を取り入れた作家です。
 晁勢は、当初は線描きによる伝統的な日本画を描きましたが、やがて面構成や明るい色彩などで独特の画風を確立し、1962(昭和37)年に《朱柱》で日本芸術院賞を受けました。長岡市名誉市民(旧与板町名誉町民)です。
〔2019年1月掲載〕
鷲尾雨工鷲尾雨工
 西蒲原郡黒鳥村(現新潟市西区)生まれ。3代続いた医者の家柄でしたが、祖父と父は早くに亡くなり、生家は雨工が3歳の時に焼失したため、小千谷市にある母親の実家に移住しました。
 旧制小千谷中学校では常に成績上位で、卒業後は文学を志して早稲田大学英文学科に進みました。同級生には、直木三十五、青野季吉(佐渡市出身)、坪田譲治、西條八十など、後に文壇で名を馳せた人材がそろっていました。また、中学後輩の西脇順三郎が慶応大学に入学すると、雨工の下宿で文学談義を重ねました。
 卒業後、直木から声をかけられて出版社を共同経営しますが失敗し、多額の負債を抱えて小千谷に帰郷しました。しかし作家への道を諦められずに再び上京し、職を転々としながら執筆活動を続けました。再上京から11年、43歳の時に『吉野朝太平記』で第2回直木賞を受賞。歴史小説家として評価を高めましたが、戦後の歴史物軽視の時流や体調悪化のせいで、その活躍は長く続きませんでした。
〔2018年12月掲載〕
市島謙吉市島謙吉
 新潟県最大の豪農・市島家の分家の生まれ。水原代官所の学問所・広業館で星野恒に学び、新潟学校、東京英語学校を経て東京大学文学科に入学しました。しかし政治家を目指して大学を中退、大隈重信の改進党創設に参加。高田新聞社長兼主筆、新潟新聞主筆、読売新聞主筆など、政党活動と併せて新聞人としても活躍しました。また東大同期・坪内逍遙や高田早苗らとともに、東京専門学校(現在の早稲田大学)の創設に参加しました。
 1902(明治35)年、早稲田大学の初代図書館長に就任。翌年から分類目録規則を完備するなど図書館の拡充をはかりました。これは、図書館の蔵書検索OPAC(オンライン蔵書目録)の原点です。「誰でもいつでも本が読める、借りられる、調べられる」という近代的なシステムを推し進めました。
また、春城と号して多くの随筆を残しました。また教育者として郷土新潟の志ある若者たちを支援、当時の東京における県人の中心的人物でした。
〔2018年11月掲載〕
大橋佐平・新太郎大橋佐平・新太郎
 ◆出版社「博文館」を創設◆
 長岡市に生まれた大橋佐平は、北越新報、越佐毎日新聞を創業するなど活躍した後、新事業を志して1886(明治19)年、51歳で上京しました。翌年、同郷の医学者小金井良精の斡旋で借りた6畳二間の長屋で出版社・博文館を立ち上げました。1895(明治28)年には日本初の総合雑誌「太陽」を創刊しました。藩閥に関係なく優れた人材を執筆者に迎えたこの雑誌は、当時の世論形成に大きな役割を果たしました。

◆日本初の私立図書館「大橋図書館」を創設◆
 1893(明治26)年、大橋佐平は出版事業視察のため欧米を訪れ、帰国後図書館創立を構想します。図書の収集など準備を進める途中で佐平は亡くなりますが、事業は息子の新太郎に継承され、博文館創立15周年の1902(明治35)年に日本初となる私立図書館「大橋図書館」が開館しました。初代館長は、同郷の石黒忠悳(小千谷育ち)が務めました。
〔2018年10月掲載〕
前島密前島密
 私たちは、いつでもどこでも、平等に情報を受け取ることができます。この情報化社会の基礎を築いたのが、前島密です。
 密は幕臣の頃、欧米では国中どこにでも情報のやり取りができる郵便制度があり、それが国を豊かにしていることを知りました。明治維新後に新政府の役人として登用された密は、その経験をもとに、郵便制度を立ち上げようと動き出しました。従来の飛脚制度を廃止し、西欧の郵便制度を採り入れて「郵便」「切手」「はがき」などの名称を決め、全国均一料金制を導入、外国郵便の取扱を開始させました。このように、誰もが平等に簡単に利用できる郵便制度の構築に貢献したことから、「日本郵便の父」と呼ばれています。
 また、海運・鉄道業の振興や新聞事業、郵便為替や貯金の導入、電話事業の開始など、日本の文明開化をけん引する数多くの事業に関わり、新しい仕組みを作り上げました。また教育の分野でも、盲学校の設立や東京専門学校(早稲田大学の前身)の校長を務めるなど、その業績は多岐にわたっています。
〔2018年9月掲載〕
司馬凌海
司馬凌海
 語学の天才で、西洋医学を日本語に訳して伝えることでその発展に大きく貢献しました。日本初の独和辞典『和訳独和辞典』の出版でも知られ、「蛋白質(たんぱくしつ)」、「十二指腸」、「窒素(ちっそ)」は凌海が訳した言葉といわれています。
 11歳で江戸に出て漢学、蘭学、医学を学び、さらにオランダ語、ドイツ語、英語、フランス語など6か国語をマスターしました。近代化のために雇用された外国人医師の授業も、優秀な通訳の凌海がいなければ成立しませんでした。東京や愛知で医学校の教授や病院長などを歴任しました。
 司馬遼太郎の歴史小説『胡蝶の夢』の登場人物の一人として描かれています。
〔2018年8月掲載〕
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