

旧制高田中学(現高田高校)時代から短歌を始め、「御風」の号を用いました。中学卒業後に与謝野鉄幹主宰の「新詩社」に入会、『明星』の同人になりました。東京専門学校(現早稲田大学)に進み、同期には會津八一、1年上には小川未明がいました。大学在学中に仲間と詩歌雑誌『白百合』を創刊し、個人の感性を自由に表現する浪漫主義運動の一翼を担いました。
大学卒業後は『早稲田文学』の編集に関わり、「早稲田詩社」を創設して口語自由詩運動の先駆者となります。24歳で早稲田大学校歌「都の西北」を作詞しました。また、恩師島村抱月と劇団芸術座の『復活』の劇中歌「カチューシャの唄」を合作、一世を風靡しました。
33歳で東京の文壇生活を捨てて故郷の糸魚川に帰り、良寛研究に着手しました。良寛を多感多情の人間として、その生き方を世の人に知らしめました。それが今日の良寛研究の道を開いた大著『大愚良寛』です。その後も良寛研究書を多数出版しました。
- 糸魚川歴史民俗資料館《相馬御風記念館》
- 相馬御風関係資料を中心に、御風と交流した人たちの作品や古書画などのコレクションあわせて収蔵・展示しています。