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アーカイブ「新潟偉人」発見

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アーカイブ「新潟偉人」発見


当館ホームページで過去に紹介した「新潟偉人」をまとめて紹介しています。

長谷川泰長谷川泰
 幕末から明治時代の医師。長岡藩医(漢方医)の長男として生まれ、燕市粟生津にあった私塾・長善館で学びました。父から漢方医学を学び、やがて西洋医学に興味を抱いた長谷川は、長岡藩家老・河井継之助に見込まれて千葉県佐倉にある医学塾・順天堂に入塾。のち江戸の西洋医学所でも学びました。
 維新後は長崎医学校校長などを経て、西洋医の早期教育を目指した済生学舎(現在の日本医科大学)を東京に創立しました。これは女子入学も認めた日本初の私立医学校で、世界的に有名な細菌学者・野口英世や、現在の東京女子医科大学を創設した女医の吉岡弥生を含む約1万人の医師を育てました。
 衆議院議員を3期務め、京都帝国大学の設立、北里柴三郎の伝染病研究所を実現させ、清潔な生活環境を実現する下水道法制定にも尽力しました。
〔2021年9月掲載〕
蕗谷虹児蕗谷虹児
 大正から昭和初期の少女たちに絶大な人気を誇った抒情画家です。当時人気だった日本画家・尾竹竹坡(新潟市出身)に日本画を習いました。19歳で郷里を離れ、樺太滞在を経て東京へ。当初はポスター描きで生計を立てましたが、程なく竹久夢二の知遇を得て、雑誌「少女画報」の挿絵を描き始めます。吉屋信子(新潟市出身)の連載小説「花物語」の挿絵を担当したことをきっかけに、一躍人気作家となりました。
 本格的に絵画を学ぶため27歳でパリに渡り、サロンで連続入選を果たします。パリ滞在中そして帰国後も、虹児は少女雑誌にモダンな画風の挿絵を描いて、少女たちに夢を与え続けました。
 戦後は童画や絵本の分野で活躍したのち、草創期のアニメ映画にも関わりました。画業50年展に出品した「花嫁」は切手となり、現在でも人気を博しています。
〔2021年8月掲載〕
久保田きぬ子久保田きぬ子
 相川町(現佐渡市)町長の長女に生まれ、新潟高等女学校、日本女子大を経て、1946(昭和21)年、東京大学が初めて女性に門戸を開いた年に初の女子学生として法学部政治学科に入学。1952(昭和27)年プリンストン大学に留学しアメリカ憲法を学びます。1961(昭和36)年の国連総会では日本で女性初の政府代理となり3回務めました。
 また、アメリカの憲法や基本的人権、プライバシーの権利、自由の表現などを研究し、論文を多数発表。三島由紀夫の小説『宴のあと』裁判では、主人公のモデルにされた元外務大臣の有田八郎(相川町出身)に名誉棄損ではなくプライバシー侵害で訴えることを提案しました。1964(昭和39)年、この裁判で「プライバシーの権利」を認めた日本初の判決が下りました。
〔2021年7月掲載〕
坂口安吾坂口安吾
 坂口安吾は新潟市西大畑町に父仁一郎と母アサの五男として生まれました。父は新潟新聞社長、衆議院議員の名士であり、漢詩人(号・五峰)としても有名でした。丙午の年に生まれたので、炳吾(へいご)と名付けられました。「炳」は明らかという意味です。
 新潟中学校(現新潟高校)に入学しましたがほとんど登校せずに退学し、東京の豊山中学へ編入。一時小学校の代用教員を務めたのち、東洋大学印度哲学倫理学科へ。卒業後、同人誌で文学活動を続けた安吾は小説『風博士』で注目されて文壇に登場しました。
 太平洋戦争直後に『堕落論』を発表。「堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」という安吾の主張は、敗戦で打ちのめされた若者を中心に強い衝撃を与えました。その後も『白痴』、『桜の森の満開の下』などを発表して「無頼派(ぶらいは)」「新戯作派(しんげさくは)」の作家として活躍。とりすました「文学」という権威を否定し、俗であることを良しとする「自由人」でした。
〔2021年6月掲載〕
倉石武四郎倉石武四郎
 上越市(旧高田町)の商家に生まれた倉石は高田中学校(現高田高校)を首席で卒業後、東京帝国大学(現東京大学)文学部支那文学科へ入学しました。中国人講師の唐詩の朗吟を聞いて、その響きのなめらかさに、流れるような韻律に感銘を受けました。そして、漢文を日本語として読む訓読の解読法に疑問を抱き、新たな「支那学」が生まれつつあった京都帝国大学(現京都大学)大学院へ進学しました。この頃、中国での在外研究を契機に、生きた中国語を学ぶための音読法を提唱しました。
 倉石は京都帝国大学や東京帝国大学で教授として中国語学研究に専念したほか、日本初の中国語辞典『岩波中国語辞典』を編さんしました。中国語の発音を表したローマ字「ピンイン」から単語を引ける辞典です。また、戦後は中国語専修学校「日中学院」を主宰したり、ラジオ中国語講座の講師を務めたりするなど中国語教育の普及と向上に務めました。
〔2021年5月掲載〕
内山愚童内山愚童
 小千谷市の宮大工の長男として生まれます。向学心が強く、高等小学校を優秀な成績で卒業しました。家業を弟に譲って19歳で上京。22歳のとき、神奈川県にある曹洞宗の宝増寺で出家しました。
 神奈川県の林泉寺の住職就任の前後に社会主義に心酔し、幸徳秋水らと交わりを結んでから無政府主義をとるようになりました。冊子『無政府共産』を秘密裏に出版して逮捕。言論弾圧はますます激しくなり、釈放後も『小作人はなぜ苦しいか』『道徳否認論』などを秘密出版して再逮捕され、懲役7年の実刑判決を受けました。さらに天皇暗殺計画があったとする大逆事件の共犯とされ、幸徳秋水らとともに処刑されました。後に大逆事件はねつ造とみなされ、追放処分した曹洞宗では名誉回復されました。
〔2021年4月掲載〕
尾竹竹坡尾竹竹坡
 新潟市に生まれ、富山へ移住しました。生活のために富山の売薬がおまけで配布する版画の下絵などを描いた時期もありました。尾竹3兄弟の次男で、兄は越堂、弟は国観です。
 上京して日本画家川端玉章の門下に入り、第1回文展に入選します。岡倉天心の「国画玉成会」と行動を共にしますが、審査員選出などをめぐって対立、脱退しました。文展で3回連続上位入賞して人気画家となりますが、今度は天心の弟子・横山大観ら美術学校派と対立し、大観らが審査員を務めた第7回文展では尾竹一門の作品はことごとく落選しました(文展事件)。この審査結果に反発し、美術行政の改革を求めて国会議員に立候補しましたが落選。選挙の借財返済のため乱作に陥り、評価を下げました。晩年は絵画の前衛運動などに参加。門下に抒情画家・蕗谷虹児がいます。
〔2021年3月掲載〕
大杉栄相馬御風
 長岡藩士の二男として生まれました。母の兄は「米百俵」の故事で有名な小林虎三郎です。良精は1870年に上京後、進路に悩み、伯父虎三郎の助言により医師を志し、大学東校(現東京大学医学部)に入学しました。
 1880年からドイツに留学。「染色体」を命名した解剖学者ワルダイエルに師事しました。85年に帰国し、東大医学部講師となり日本人初の解剖学講義を担当。翌年、27歳で教授となりました。
 結婚しましたが妻に先立たれ、森鷗外の親友だった同僚を通じて、鷗外の妹喜美子と88年に再婚しました。鷗外とは留学先で面識があり、鷗外の弟で、喜美子の次兄は当時の教え子でした。
 良精の関心は人類学にも広がり、アイヌの骨格調査など研究に没頭しました。人類学者坪井正五郎が日本の先住民はコロポックルという主張に対し、良精は研究結果を根拠にアイヌ説を展開。「コロポックル論争」として知られています。
 良精はドイツへ旅立った日から約60年にわたり日記をつけていました。それを基に孫のSF作家星新一が「祖父・小金井良精の記」を書いています。
〔2021年2月掲載〕
大杉栄相馬御風
 旧制高田中学(現高田高校)時代から短歌を始め、「御風」の号を用いました。中学卒業後に与謝野鉄幹主宰の「新詩社」に入会、『明星』の同人になりました。東京専門学校(現早稲田大学)に進み、同期には會津八一、1年上には小川未明がいました。大学在学中に仲間と詩歌雑誌『白百合』を創刊し、個人の感性を自由に表現する浪漫主義運動の一翼を担いました。
 大学卒業後は『早稲田文学』の編集に関わり、「早稲田詩社」を創設して口語自由詩運動の先駆者となります。24歳で早稲田大学校歌「都の西北」を作詞しました。また、恩師島村抱月と劇団芸術座の『復活』の劇中歌「カチューシャの唄」を合作、一世を風靡しました。
 33歳で東京の文壇生活を捨てて故郷の糸魚川に帰り、良寛研究に着手しました。良寛を多感多情の人間として、その生き方を世の人に知らしめました。それが今日の良寛研究の道を開いた大著『大愚良寛』です。その後も良寛研究書を多数出版しました。
〔2021年1月掲載〕
水島あやめ水島あやめ
 南魚沼郡三和村(現南魚沼市)生まれた水島あやめは本や雑誌が好きな少女でした。吉屋信子の『花物語』を読んで小説家を夢見たあやめは長岡高等女学校(現長岡大手高校)を経て、日本女子大学へ進学しました。
 あやめ上京の一年前、1920(大正9)年、東京蒲田に松竹蒲田撮影所が開所されました。専属俳優として川田芳子(新潟市出身)らが所属し、脚本に力を入れた新しい現代劇映画を確立します。
 大学4年生になるとあやめは映画シナリオを学び始めます。そのときに書いた脚本『落葉の唄』と『水兵の母』が映画化され好評を博し、日本初の女性映画脚本家として注目されました。1926(大正15)年、松竹蒲田撮影所脚本部に入社。城戸四郎撮影所長の直属として20数本の脚本を書きました。  1935(昭和10)年に松竹を退社して、少女時代からの夢だった小説家に転身。少女雑誌を中心に小説を発表し、『ハイジ』や『小公女』などの翻訳も行いました。
 1958年、長く介護した母の他界をきっかけに休筆。晩年は新潟の新聞や雑誌に多くの随筆を残しました。
〔2021年12月掲載〕
大杉栄大杉栄
 香川県丸亀で生まれ、軍人だった父親の転勤により4歳から14歳まで新発田で過ごしました。新発田中学(旧制)から名古屋陸軍幼年学校に入学しましたが、同級生と決闘事件などを起こし、2年で放校されました。その後、東京外国語学校(現東京外国語大学)に入学、幸徳修水や堺利彦らの非戦論に共鳴して平民社に頻繁に出入りするようになります。
 危険思想家としてしばしば逮捕された大杉は、入獄の度に外国語を独学。「一犯一語」を原則として30歳までに10か国語をマスターすると豪語しました。
 大杉は、社会運動主義活動家の賀川豊彦(1888-1960年)からファーブルの英訳本を借りたことをきっかけに翻訳を決意、1922(大正11)年にフランス語の原書を翻訳し、『昆虫記』とタイトルを付けました。日本で最初のファーブル昆虫記の翻訳本です。また、ダーウィンの『種の起源』も翻訳。自分の思想を形成する上で参考としていました。大杉の思想は「アナーキズム」、つまり「無政府主義」というものでした。上からの権威や権力を否定し、それぞれが自由に生きようという思想です。
 大震災直後の1923(大正12)年9月16日、妻の伊藤野枝らとともに憲兵隊に連行され、殺害されました。
〔2020年11月掲載〕
諸橋轍次諸橋轍次
 地元下田の私塾から新潟師範学校、東京高等師範学校(現筑波大学)へ進学、卒業後は同高等師範学校で漢文を教えました。1919(大正8)年、三菱財閥の岩崎小弥太の援助で中国へ留学。文献を読むのに一冊で足りる辞書がないことが分かり、自らの手で作ってみたいと思うようになったといいます。後に大修館社長・鈴木一平から大漢和辞典出版を持ちかけられますが、博士論文の執筆などで忙しく、決意したのは40歳半ば過ぎでした。
 教え子とともに、康熙字典やさまざまな文献にあたって漢字や熟語を集め、それを整理する根気のいる作業が続きました。全原稿の版が組み上がり、第1巻が世に出たのは、諸橋60歳のとき。しかし、45(昭和20)年の東京大空襲で大修館が被災し、全てが焼失しました。
 教え子たちの他界、自身も目が不自由になるなど困難な状況となっても諦めませんでした。自宅などに保管していた校正原稿をもとに作業を再開し55年にあらためて第1巻の刊行にこぎつけます。構想から30年がたっていました。その後5年かけて全13巻が出ました。
〔2020年10月掲載〕
小林古径小林古径
 幼くして両親を失い、孤児として育ちました。絵描きとして身を立てようと16歳で上京。歴史画で知られた梶田半古の画塾に入り、日本絵画協会・日本美術院連合共進会に入選しました。岡倉天心に才能を認められ、日英博覧会に《加賀鳶》を出品しました。
 また美術収集家として知られた実業家・原三渓(本名・富太郎)の知遇を得て、原の主催する鑑賞研究会で学び、新古典主義といわれる画風が開花しました。大和絵の伝統を守りながら東洋的なリアリズムにも目を向け、「茎を折れば、青くさい草の汁が匂うようだ」と評された《罌粟》(けし)など、多くの秀作を発表しました。鋭い線描の技で「線の画家」と呼ばれ、《髪》は重要文化財に指定されました。
 1950(昭和25)年に新潟県で初の文化勲章を受章しました。
〔2020年9月掲載〕
式場隆三郎式場隆三郎
 五泉市出身の式場隆三郎は、ゴッホ研究者、放浪の画家・山下清を発掘、プロデュースした医師として知られています。
 旧制村松中学校(現村松高校)在学時は、會津八一の俳句仲間であった叔父・式場益平の影響で、文芸雑誌『白樺』を愛読する文学青年でした。新潟医学専門学校(現新潟大学医学部)に進学して精神病理学を学ぶかたわら、ゴッホや民芸の調査研究も進めました。静岡脳病院院長時代に『ファン・ホッホの生涯と精神病』(1932年)、『バーナード・リーチ』(1934年)を刊行。
 1936(昭和11)年、千葉県市川市に式場病院を開業。同市にある八幡学園の顧問を務めたとき、入園していた少年・山下清を知り、才能を見出しました。式場は山下のちぎり絵の手法をゴッホの点描の作風と重ね合わせて、「日本のゴッホ」として世に紹介。また、戦後に自ら創刊した日刊紙「東京タイムズ」で山下が記した『放浪日記』を連載して、山下清ブームを巻き起こしました。
〔2020年8月掲載〕
西脇順三郎西脇順三郎
 自然を超えて私たちの心に潜むイメージを掘り出そうとした前衛芸術「超自然主義=シュルレアリスム」に着目して日本のモダニズム運動を牽引、自らを「超自然主義詩派」の詩人と称しました。
 若い頃は画家を目指しますが、進学した慶応義塾大学で経済学を専攻、語学の才能が認められてイギリスへ留学しました。最先端のモダニズム文学にふれて詩人としての活動を開始、英語で書いた第1詩集『Spectrum(スペクトラム)』を刊行しました。帰国後慶應義塾大学教授となり、詩集『Ambarvalia(アムバルワリア)』で詩人の地位を確立します。イギリスの詩人エズラ・パウンドの推薦で6度、ノーベル賞候補に挙げられました。
 1971(昭和46)年、詩壇に寄与した功績でに文化功労者に選ばれました。小千谷市名誉市民です。
〔2020年7月掲載〕
川田芳子川田芳子
 新潟市古町の日本舞踊・市山流の家元の家に生まれました。祖母は四世市山七十世として、東京の歌舞伎界でも有名でした。尋常小学校を卒業後、祖母から踊りを、職業画家の母から南画を習いました。
 11歳で母と上京。修行を経て、新橋の芸妓となります。新派劇の創始者の川上音二郎の宴席に呼ばれたとき、夫人で舞台女優の川上貞奴に女優を薦められて夫妻のもとで修行しました。女優「川上よし子」として初舞台を踏んだのは1914(大正3)年12月の帝国劇場でした。
 新派で活動したのち、1920(大正9)年の松竹蒲田撮影所設立時に専属女優「川田芳子」として迎えられ、撮影所初の短編映画「島の女」に主演。浮世絵の美人画のような美しさと可憐さで人気を博し、当時の映画女優の人気投票でトップになるなど、日本映画の黎明期のスター女優として活躍しました。
 1935(昭和10)年の「母の愛」への出演を最後に、映画女優を引退。晩年は市山流の名取を務めました。
〔2020年6月掲載〕
北一輝北一輝
 佐渡市両津の醸造家の長男。父は初代の両津町長となった北慶太郎です。佐渡中学(現佐渡高校)で飛び進級するほどの秀才でした。
 中学時代、佐渡新聞に「国民対皇室の歴史的観察」を発表し、世の非難を浴びました。21歳で上京し早稲田大学に学び、幸徳秋水ら社会主義者と交流。23歳の著作『国体論及び純正社会主義』で明治憲法による体制を批判し、明治維新の本質とは、天皇は国民の天皇であり、基本的人権や言論の自由を保障し、貴族などの階級制度がない男女平等社会だと主張しました。1919(大正8)年に『日本改造法案大綱』を著し、皇道派軍人の必読書となりますが、二・二六事件の理論的指導者とみなされ銃殺刑に。危険思想とされた北の主張は、第二次世界大戦の占領政策で実現されました。善悪を超越した不思議なカリスマ性により、「魔王」と呼ばれました。
 佐渡市両津に生家が残っており、佐渡市両津八幡若宮神社に彰徳碑があります。
〔2020年5月掲載〕
小柳司氣太小柳司氣太
 三条市で生まれたのち、旧東中村(現新潟市西蒲区)の庄屋を務める母の実家で育ちました。「長善館」で漢学、数学、英語を学んだのち、東京帝国大学選科に入学。帝大卒業後、新聞記者を経て研究者となりました。山口高校、学習院大学、國學院大學、大東文化学院(現大東文化大学)などで教鞭をとりました。大東文化学院では事実上の総長を務め、教育に尽力しました。
 宋学から老荘思想、道教、陰陽道、神道など幅広く東洋思想について研究。特に『老荘の思想と道教』(昭和17年出版)では、西欧の研究成果も取り込み、従来の漢学の枠組みを超えた国際的な視野に立った研究を行いました。
 漢学者の諸橋轍次(三条市生まれ)は小柳を慕い、その業績を称えていました。諸橋は、小柳が学問に関する確かな識見と厳しさの一方、日常の雑事には人を閉口させるほど無頓着であったと伝えています。東洋の哲人のような風貌と飾らない人柄の学問一筋の人でした。
〔2020年4月掲載〕
横山操横山操
 旧吉田町で生まれると直ぐに実母と離れて養子になりました。旧制巻中学校(現巻高校)卒業後、画家を志して上京。看板描きなどをしながら川端画学校夜間部で学びました。20歳の時に青龍社展で初入選しますが、直後に徴兵されて中国大陸で敗戦を迎えました。終戦直後にシベリアへ抑留され、強制労働をさせられたのち、28歳で帰国しました。
 戦後、日本画は時代にそぐわない古くさい芸術とみなされました。操の所属する青龍社でも、旧来のこぢんまりとした日本画ではなく、大画面による新しい日本画を目指していました。操は、桁外れの大画面に「日本そのものを対象に、そこに“生きている”現実を表現」した力強い筆遣いで、混迷する日本画に突破口を開きました。
 晩年は激しい作風が内省的なものに変わり、故郷の風景をモチーフとした作品を残しています。代表作に《炎炎桜島》(新潟県立近代美術館・万代島美術館蔵)、《赤富士》などがあります。
〔2020年3月掲載〕
石黒忠悳石黒忠悳
 帝国陸軍の軍医制度を確立した医師です。
 両親が若死にして天涯孤独となり、16歳のとき、父の姉が嫁いでいた三島郡片貝村(現・小千谷市)の石黒家の養子になりました。若い時は片貝村(現小千谷市)で漢学の私塾を開く、熱狂的な尊王攘夷派でした。その頃の弟子に「妖怪博士」井上円了がいます。その後、佐久間象山との出会いで洋学の必要性に目覚め、医学を志し、大学東校(現東京大学医学部)で学び軍医になりました。西南戦争に従軍した後、陸軍軍医総監、医務局長を務め、部下には森鷗外がいました。鴎外の小説『舞姫』に登場する上司役のモデルとされています。
 退任後、大倉財閥の総帥・大倉喜八郎に要請され、大倉商業学校(現在の東京経済大学)の創設に関わりました。また日比谷公園の設計に参画し、日本赤十字社社長も務め幅広く活躍しました。妻は傷痍軍人や家族の慰労活動に大きく貢献しました。
〔2020年2月掲載〕
山岡荘八山岡荘八
 数々の歴史小説で、日本中の読者に愛された「国民作家」です。負けず嫌いで正義感が強く、作文や読書が好きな少年だったと言います。13歳の時、小出小学校高等科を中退後上京。父の死で一時帰郷しましたが、再び上京し18歳で印刷製本の会社を起こしました。不況のため会社が倒産すると、山岡は作家を志し、『瞼の母』などの股旅物で人気を博していた長谷川伸に師事しました。
 戦時中に神風特攻隊を取材して衝撃を受け、この時抱いた「平和への願い」を徳川家康が思い描いた「泰平」に託し、小説『徳川家康』(全26巻)を17年かけて完成させました。これは企業経営に指南書としても評価されました。『春の坂道』『徳川家康』『独眼竜政宗』の3作品がテレビ大河ドラマ化されています。
 魚沼名誉市民で、同市内の公園に「菊ひたしわれは百姓の子なりけり」の文学碑があります。
〔2020年1月掲載〕
瓜生繁子瓜生繁子
 佐渡奉行属役・益田鷹之助(孝義ともいう)の四女として江戸に生まれました。実業家益田孝の13歳違いの妹です。長女と次女を亡くした両親は繁子の成長を心配し、幕府軍医・永井玄栄の養子に出しました。 在京アメリカ公使館通詞見習だった兄孝が遣欧使節団女子留学生募集に際し、独断で繁子の願書を提出。これが受理され、1871(明治4)年、繁子は10歳で津田梅子や山川捨松らとともに岩倉使節団に加わり、最初の女子留学生として渡米しました。繁子は米国でホームステイをしながらホストファミリーが運営する私立学校で中等教育を受けました。帰国後、繁子が覚えていた日本語は「猫」一語だけだったそうです。兄孝の通訳サポートにより日本の生活に慣れ、東京音楽大学(現東京藝術大学音楽学部)や東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)の教授を兼任するなど、西洋音楽の普及に尽力。 留学先で知り合った海軍士官・瓜生外吉と、当時では珍しい恋愛結婚をしました。
〔2019年12月掲載〕
入澤達吉入澤達吉
 父は西洋医・入澤恭平、父方の叔父に池田謙斎、母方の伯父に、竹山病院の創設者・竹山屯がいます。
 父・恭平の急死後、池田謙斎を頼って上京、のち東大医学部予科に合格し、医学者の道を進みました。卒業後、ドイツ人医師ベルツの助手となり、のちドイツに留学、ベルリン大学では内科学と病理学を専門に学びました。帰国後、東京帝国大学医科大学教授、同附属病院長などを歴任。脚気や十二指腸虫の感染経路、血色素測定法などを研究するとともに、多くの内科医を育成しました。さらに日本内科学結成に尽力、大正天皇の侍医頭を務めました。「医者」という表現を嫌い、弟子たちに「医師」として人間的にも社会の規範となることを説きました。
 また博識で文才にも恵まれ、「雲荘」と号し随筆も残しています。漢詩集『雲荘詩存』は中国で出版されました。見附市名誉市民第1号です。
〔2019年11月掲載〕
池田謙斎池田謙斎
 旧姓入澤。旧中之島町西野(現長岡市)の名主の家柄です。甥に、大正天皇の侍医頭を務めた入澤達吉がいます。
 16歳で蘭方を学ぶため江戸に出て、尊王攘夷論に刺激を受けました。6年後郷里に戻り、江戸・長崎で西洋医学を学んで地元で開業していた兄・入澤恭平の手伝いをしながら最新の医学を学びました。再び江戸に出ると「敵(外国)を知るため」にオランダ語を学び、蘭学者の緒方洪庵に弟子入りしました。洪庵の死後、緒方家の養子を経て、さらに池田玄仲の養子となりました。のち長崎でオランダ人医師ボードウィンに学び、その後、上野の彰義隊の戦いでは負傷者の治療に際し、イギリス人医師ウィリアムから外科手術を学びました。
 明治維新後、官費でドイツのベルリン大学に留学し、医学博士の学位を得ました。帰国後は宮内省御用掛(天皇の侍医)、陸軍軍医監、東京大学医学部綜理(文系綜理と並ぶ初代学長)を務めました。日本に博士制度が導入されると、最初の医学博士の称号が贈られました。
〔2019年10月掲載〕
星野恒星野恒
 現在の南区白根に生まれた星野恒(1839-1917年)は、幼い頃から学問が好きで、家業の農家を弟に託して上京。幕府の学問所「昌平黌」教授の学僕となって働きながら学問に励みました。やがて塾頭に推され、師の養子にと望まれますが、親の許しを得られずに帰郷。水原の学問所「弘業館」(現阿賀野市立水原小学校)で、教師や生徒を教育しました。当時の生徒には市島謙吉(春城)がいます。
 星野は和漢の学に通じていましたが、とりわけ中国の史書注釈「春秋左氏伝」を得意としました。古文書を正確に考証し、客観的で実証性を重んじる学風でした。
 1875(明治8)年に再び上京し、明治政府の日本史編さん事業に参加。中心的役割を果たした後、東京帝国大学教授となり、国史学の基礎を築きました。著書に官撰日本通史『国史眼』など多数あり、新潟出身の尊王思想の先達を扱った『竹内式部君事迹考』もあります。
〔2019年9月掲載〕
竹内式部竹内式部
 竹内式部(本名・敬持)は江戸時代中期の神学者、尊王思想家です。1712(正徳2)年、新潟市中央区の医家に生れました。15歳の頃、京に上り、公家の徳大寺家に仕えました。そこで儒学や神道を学び、後に明治維新を実現した尊王思想の源流を作りました。京で塾を開いて、若い公家たちに天皇家の血筋を守る神道の教義を説き、また武芸も指導しました。
 しかし式部の思想が、幕府との関係悪化を招くと一部の公家から恐れられて告発されて、式部は1758(宝暦8)年に京を追放されます。この一件は日本の歴史で初めて尊王論者が弾圧された宝暦事件として知られています。さらに1767(明和4)年、江戸で倒幕を企む明和事件が起こり、式部も思想的に同類であるとみなされ八丈島へ流罪となりましたが、移送の途中、三宅島で病没しました。
 1916(大正5)年、新潟市出身の歴史学者・星野恒の撰文による顕彰碑が中央区白山公園内に建てられました。
〔2019年8月掲載〕
岩田正巳岩田正巳
 三条市の眼科医の長男として生まれ、幼い頃より父から『太平記』などの軍記物を読み聞かされて育ちました。
 旧制三条中学を卒業後、東京美術学校に進学し、歴史画を得意とする小堀鞆音(ともと)や松岡映丘(えいきゅう)に師事しました。美術研究科在籍中に松岡らと共に「新興大和絵会」を結成。歴史物語などを題材とする大和絵に風景画というジャンルを確立、新境地をひらきまました。従来の歴史画では、風景は定型的な背景でしかありませんでしたが、岩田は豊かな臨場感で人物たちを生き生きと見せる風景を描きました。
 昭和に入ると、岩田は朝廷や武家の制度や慣習を研究し、その成果を歴史画制作に生かしました。第二次世界大戦後はテーマを中国やインドに広げ、大和絵を描き続けました。歌舞伎の時代考証などの分野でも活躍。1961年《石仏》で日本芸術院賞を受賞しました。日本芸術院会員、三条市名誉市民です。
〔2019年7月掲載〕
平澤興平澤興
 新潟の小学校を卒業後、父のいた京都へ移りました。京都帝国大学で学び、新潟医科大学(新潟大学の前身)助教授などを経てスイス、ドイツへ留学しました。スイスのチューリッヒ大学では、恩師に注意され脳の標本を模写しなおしたことで「わかったつもりと本当にわかることの違い」を理解しました。平澤はこの恩師の教えを研究の教訓としました。
 帰国後は京都大学で教授、医学部長、総長を歴任、京都市民病院長も務めました。解剖学研究で多くの成果をあげ、中枢神経、特に人間の運動を無意識につかさどる「錐体外路(すいたいがいろ)」の研究などが世界的に認められています。一般向けの医学解説書、啓蒙書、随筆も多く講演活動では尊敬と人気を博しました。あつい仏教信者で、国宝菩薩半跏像(ぼさつはんかぞう)を本尊とする中宮寺の発展にも寄与しました。旧味方村名誉村民です。
〔2019年6月掲載〕
宮柊二宮柊二
 生活者の視点から感慨を込めて現実を眺めつづけ、戦後歌壇をリードした歌人。新春恒例の宮中行事、歌会始の選者を8回も務めました。
 宮は、書店の長男として生まれました。本名は肇。「柊二」の筆名は、愛読したロシアの詩人・プーシキンが由来になっています。旧制長岡中学時代に歌を詠み始めました。20歳で上京し、歌人・北原白秋の内弟子、秘書となります。白秋主宰の多摩短歌会で活躍しはじめたころ、戦争に召集されて中国山西省で5年を過ごしました。帰国後は製鉄会社に勤務しながら、1953年に「コスモス短歌会」を立ち上げ、歌誌「コスモス」を創刊。会社勤めを辞めて歌業に専念するようになり、新潟日報などで投稿歌壇の選者を務めました。日本芸術院賞受賞に際して「万葉古今のよみ人しらずの歌人のように『埋没の精神』を心とする庶民的歌人」とたたえられました。また、同じ歌人の英子夫人も歌会始の選者、召人を務めました。魚沼市名誉市民(旧堀之内町名誉町民)です。
〔2019年5月掲載〕
大庭みな子大庭みな子
 女性初の芥川賞選考委員を務めた作家・大庭みな子の父は、新潟医専(現新潟大学医学部)卒の海軍医でした。東京で生まれたみな子は、父親が1941(昭和16)年に海外勤務になると母親の実家のある木崎村(現新潟市北区)の伯母の家で暮らしました。その後は父親の転任に伴い広島や愛知などで過ごしました。戦後に再び一家で木崎村に移り、新潟高等女学校(旧制)、新発田高等女学校(旧制)に通いました。津田塾大学入学後まもなく出会った大庭利雄と、1955(昭和20)年に結婚。大学卒業後、夫の赴任地米国アラスカで本格的に執筆活動を始めます。
 1968(昭和43)年、『三匹の蟹』で芥川賞と群像新人賞をダブル受賞。作家としての地位を確立しました。日本芸術院会員で、日本ペンクラブ副会長を務め、女性初の芥川賞選考委員にもなりました。1996年に脳梗塞で倒れた後も創作意欲は衰えず、利雄が介護をしながら口述筆記で作品づくりを支えました。
〔2019年4月掲載〕
中村十作中村十作
 板倉町(現上越市)の小地主の五男として生まれました。20歳で海軍に入りますが、訓練中に負傷し除隊します。その後、早稲田大学に進学しますが、学費が続かず中退し、真珠養殖家を目指し宮古島に渡りました。島には琉球王朝の古い制度が残っており、島民を奴隷的に支配していました。
 帝国議会の請願制度を学んでいた十作は、養殖業の資金を提供し、人頭税廃止請願運動を起こします。帝国議会に向けて上京すると、新潟県人や早稲田人脈に助けられ、請願は2年がかりで採択されました。島に266年続いた人頭税は廃止され、十作は島民から「大和から来た神様」と敬われ、「御嶽(うたき)」という島の守り神に祭られました。また、島民の協力で、日本初の黒真珠養殖にも成功しました。
〔2019年3月掲載〕
鈴木文臺鈴木文臺
 医家の次男で、江戸時代から明治にかけて粟生津村(現燕市)にあった私塾「長善館」の創設者です。17歳の時、良寛の前で「論語」「唐詩選」を講義して褒められました。その後江戸に出て学び、帰郷後、37歳で長善館を開設しました。長善館では規則正しい生活習慣を学則で定め、中国の古典などを系統立てて教えました。
 文臺は、当時奇僧として知られていた良寛の学識をいち早く評価した人物でもあります。「良寛の漢詩は寒山詩を思わせ、その書はのびやかな懐素(中国・唐時代の書の大家)の書風を思わせ、和歌には万葉集の響きがある」としてその学識を評価しました。
 長善館は文臺の死後も3代にわたって引き継がれ、近代の黎明期に公共事業、教育界、政界で活躍する人材を1000人以上世に送り出しました。柏崎にあった「三餘堂」と並び「北越私学の双璧」と呼ばれました。
〔2019年2月掲載〕
三輪晁勢三輪晁勢
 洋画家・三輪大次郎の子として生まれました。与板町立与板尋常小学校卒業後、画家修業の為に京都へ移住し、京都市立美術工芸学校で日本画を学び始めました。ゴーギャンに憧れ、洋画への転向を考えたこともありましたが、そんなとき、一度志した日本画の道を貫くように助言したのが、東京帝大教授で社会学者の伯父・建部遯吾(新潟市出身)だったといわれています。
京都市立絵画専門学校で出会った堂本印象に師事し、印象主宰の画塾「東丘社(とうきゅうしゃ)」で共に日本画の新境地を開きました。師の印象は、戦後まもなく渡欧し、伝統的な日本美術に抽象表現を取り入れた作家です。
 晁勢は、当初は線描きによる伝統的な日本画を描きましたが、やがて面構成や明るい色彩などで独特の画風を確立し、1962(昭和37)年に《朱柱》で日本芸術院賞を受けました。長岡市名誉市民(旧与板町名誉町民)です。
〔2019年1月掲載〕
鷲尾雨工鷲尾雨工
 西蒲原郡黒鳥村(現新潟市西区)生まれ。3代続いた医者の家柄でしたが、祖父と父は早くに亡くなり、生家は雨工が3歳の時に焼失したため、小千谷市にある母親の実家に移住しました。
 旧制小千谷中学校では常に成績上位で、卒業後は文学を志して早稲田大学英文学科に進みました。同級生には、直木三十五、青野季吉(佐渡市出身)、坪田譲治、西條八十など、後に文壇で名を馳せた人材がそろっていました。また、中学後輩の西脇順三郎が慶応大学に入学すると、雨工の下宿で文学談義を重ねました。
 卒業後、直木から声をかけられて出版社を共同経営しますが失敗し、多額の負債を抱えて小千谷に帰郷しました。しかし作家への道を諦められずに再び上京し、職を転々としながら執筆活動を続けました。再上京から11年、43歳の時に『吉野朝太平記』で第2回直木賞を受賞。歴史小説家として評価を高めましたが、戦後の歴史物軽視の時流や体調悪化のせいで、その活躍は長く続きませんでした。
〔2018年12月掲載〕
市島謙吉市島謙吉
 新潟県最大の豪農・市島家の分家の生まれ。水原代官所の学問所・広業館で星野恒に学び、新潟学校、東京英語学校を経て東京大学文学科に入学しました。しかし政治家を目指して大学を中退、大隈重信の改進党創設に参加。高田新聞社長兼主筆、新潟新聞主筆、読売新聞主筆など、政党活動と併せて新聞人としても活躍しました。また東大同期・坪内逍遙や高田早苗らとともに、東京専門学校(現在の早稲田大学)の創設に参加しました。
 1902(明治35)年、早稲田大学の初代図書館長に就任。翌年から分類目録規則を完備するなど図書館の拡充をはかりました。これは、図書館の蔵書検索OPAC(オンライン蔵書目録)の原点です。「誰でもいつでも本が読める、借りられる、調べられる」という近代的なシステムを推し進めました。
 また、春城と号して多くの随筆を残しました。また教育者として郷土新潟の志ある若者たちを支援、当時の東京における県人の中心的人物でした。
〔2018年11月掲載〕
大橋佐平・新太郎大橋佐平・新太郎
 ◆出版社「博文館」を創設◆
 長岡市に生まれた大橋佐平は、北越新報、越佐毎日新聞を創業するなど活躍した後、新事業を志して1886(明治19)年、51歳で上京しました。翌年、同郷の医学者小金井良精の斡旋で借りた6畳二間の長屋で出版社・博文館を立ち上げました。1895(明治28)年には日本初の総合雑誌「太陽」を創刊しました。藩閥に関係なく優れた人材を執筆者に迎えたこの雑誌は、当時の世論形成に大きな役割を果たしました。

◆日本初の私立図書館「大橋図書館」を創設◆
 1893(明治26)年、大橋佐平は出版事業視察のため欧米を訪れ、帰国後図書館創立を構想します。図書の収集など準備を進める途中で佐平は亡くなりますが、事業は息子の新太郎に継承され、博文館創立15周年の1902(明治35)年に日本初となる私立図書館「大橋図書館」が開館しました。初代館長は、同郷の石黒忠悳(小千谷育ち)が務めました。
〔2018年10月掲載〕
前島密前島密
 私たちは、いつでもどこでも、平等に情報を受け取ることができます。この情報化社会の基礎を築いたのが、前島密です。
 密は幕臣の頃、欧米では国中どこにでも情報のやり取りができる郵便制度があり、それが国を豊かにしていることを知りました。明治維新後に新政府の役人として登用された密は、その経験をもとに、郵便制度を立ち上げようと動き出しました。従来の飛脚制度を廃止し、西欧の郵便制度を採り入れて「郵便」「切手」「はがき」などの名称を決め、全国均一料金制を導入、外国郵便の取扱を開始させました。このように、誰もが平等に簡単に利用できる郵便制度の構築に貢献したことから、「日本郵便の父」と呼ばれています。
 また、海運・鉄道業の振興や新聞事業、郵便為替や貯金の導入、電話事業の開始など、日本の文明開化をけん引する数多くの事業に関わり、新しい仕組みを作り上げました。また教育の分野でも、盲学校の設立や東京専門学校(早稲田大学の前身)の校長を務めるなど、その業績は多岐にわたっています。
〔2018年9月掲載〕
司馬凌海司馬凌海
 語学の天才で、西洋医学を日本語に訳して伝えることでその発展に大きく貢献しました。日本初の独和辞典『和訳独和辞典』の出版でも知られ、「蛋白質(たんぱくしつ)」、「十二指腸」、「窒素(ちっそ)」は凌海が訳した言葉といわれています。
 11歳で江戸に出て漢学、蘭学、医学を学び、さらにオランダ語、ドイツ語、英語、フランス語など6か国語をマスターしました。近代化のために雇用された外国人医師の授業も、優秀な通訳の凌海がいなければ成立しませんでした。東京や愛知で医学校の教授や病院長などを歴任しました。
 司馬遼太郎の歴史小説『胡蝶の夢』の登場人物の一人として描かれています。
〔2018年8月掲載〕
坂口安吾坂口安吾
 新潟中学校(現新潟高校)に入学しましたがほとんど登校せずに退学し、東京の豊山中学へ編入。一時小学校の代用教員を務め、東洋大学哲学科に進学。卒業後、同人誌で文学活動を続け、小説『風博士』や『黒谷村』で注目されデビューしました。
 戦後、評論『堕落論』を発表し「堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」と主張し、敗戦に打ちのめされた国民に大きな影響を与えました。また『白痴』『桜の森の満開の下』など次々と発表し、「無頼派」「新戯作派」の作家として活躍します。
 とりすました「文学」という権威を否定し、俗であることをよしとする「自由人」でした。
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